語る側/語らない側──情報の非対称性と受け取る人間の心理について

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この件は人間の名前を出さないで書くので、
「君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる。」(芥川龍之介「或阿呆の一生」より)です。
つまり、何の話かわかっても、黙っててね!ってことですね。

ある人間は、語る場があって、盛んに語ります。友情について、自分の心について。相手を責めてはいないし、これからも仲良くしたいというようなことまで。
しかし、その「語る」相手は、言及された当事者ではなく、語っている人間を慕う第三者です。相手─当事者には話さない。
なのに、自分を慕う第三者には「こういうことがあったが、自分は寛容だ」と語るのです。

すると、それを聞いた、内情を知らない第三者はどう思うか。
本当は何があったか分からないのに、何となく「言及された相手が許されないようなことをしたけど、この人は許そうとしている」という印象を持ってしまいます。だって優しげなことを言うんだもん。ただでさえ、聞いた人間はその人を慕っていますから、好意的に解釈してしまうでしょう。

でも待って。
その人、「許す/許さない」って話、してますか?
頭の中で、語りを一段強く捉えてしまっていませんか?

さて、実際の「言及された相手」は何をしているのか。
何も言いません。本当に一言も。何も言わないのです。

そうするとどうなるか。

語る人間の言及の内容が正しいのだと、話を聞いた第三者は思ってしまいます。そして、相手には「言えないような何かがあり、許されないことをしたに違いない」と思われてしまうのです。

ですが、本当に?
寛容だと言っているのも、責めてはいないと言っているのも、一方向「からのみ」です。


それは、本当に正しくものごとを見られたことになりますか?この話を聞いていた第三者は、一方からだけの話を聞いて判断していませんか?

これは歴史上でも多くの事例があり、私はいろんな時に悲しい思いをしてきました。そして今、またとても歯がゆくも悲しくも悔しくも思っています。

なぜ一方の当事者が「語らないのか」考えてみませんか。

そして語った方が「話の中で語らないこと」を見つけてみませんか?

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